東京事務所の木下です。

 弁護士を増員する司法改革を見直すべきか、維持すべきか…今年4月、総務省が見直しを勧告しましたが、一方で今年6月、日経新聞では見直しに反対する特集記事が掲載され、続けて今月18日付でも、再度同旨の社説が掲載されました。要約すると、社会が求めている法曹の人材と、法科大学院で教育されている法曹の資質にミスマッチがあるだけで、企業内弁護士が増えていることからも明らかなように、弁護士増員に対するニーズは確かに存在する。したがって、まずはこのミスマッチ解消に尽力するべきであって、直ちに法曹3000人合格を撤回するには早計すぎる…というものでした。そして、そのような議論が対立する中で、先週、司法試験合格発表があり、近年の約2000人の合格者数を維持するのかが注目されていました。

 私には、どうもこの日経新聞に掲載されたような見直し反対論は、机上の理想や理念の先行論であって、リアルな現実が見えていないように感じられます。結局、今年も2000人以上の合格者が発表されましたが、次々に送り出されて就職に溢れている弁護士が相当数いるわけで、再度デザインをやり直すとしても、その間のアンバランスをどうすべきだと考えているのでしょうか?弁護士も市場原理の例外ではないから、自由競争で淘汰されても仕方がないと言えば、もっともらしく聞こえますが、それで実害がないか本当に理解できて書いているのか、私には甚だ疑問です。
 私は、結局のところ、この問題は弁護士という仕事に一定の特殊性を認めるか否か、そして、弁護士にどの程度の「ゆとり」を持たせるべきなのかに関係すると思っています。ここで言う「ゆとり」とは、精神的なゆとりだけでなく、経済的なゆとりを含みます。
 この点、私は、司法試験に合格すれば、一生安泰であるべきだとか、弁護士が特別に儲かる仕事として保護されるべきだ、などとは思っていません。しかしながら、やはり弁護士の仕事はかなり特殊であるし、精神的のみならず、経済的にも多少の「ゆとり」がなければ、適切な弁護士業務を営むことは難しいのではないかと考えています。なぜなら、依頼者(特に個人の依頼者)にとって、弁護士に依頼すべきか否かは、人生において、そうそう訪れる機会のない一大事であり、そのような人の一生を左右する弁護士の業務には、少しの間違いもミスリードも許されない特殊性があるところ、仮に「ゆとり」が全くない弁護士において、最初に収益的な儲けの意識が強く働くと、およそ専門家としての正しい判断が期待できなくなる恐れがあるからです。要するに、熾烈過ぎる自由競争に生き残るために、常に儲けを第一に算段しなければならない人…自分に「ゆとり」が全く持てない人などに、果たして他人の一大事について、親身で適切なアドバイスを期待できるのでしょうか…ということです。
 もとより、法律事務所も営利企業ですから、利益を出さなくては事務所の経営ができません。したがって、業務に伴う利益を考慮することは当然であって、間違いではないです。しかし、専門家として依頼者のためのリーガルオピニオンを決める前に、最初にこの自分の儲けの意識に覆われてしまうと、肝心の法的アドバイスの方が怪しくなる危険が高いことは否定できないと思います。

 例えば、先日私は、このような相談を受けました。
 2年近く前に、命の危険を感じるほど、ご主人の暴力が激しかったので、先に離婚届だけ提出して、子供と一緒に自宅を離れた女性の相談です。彼女は、元ご主人に対する慰謝料や財産分与の請求を諦めていたのですが、いざ時効消滅が迫る時期になって、やはりこれらの金銭を請求するべきか、しかし、改めてご主人と接触を持つことの不安も大きく、かなり悩みながら事務所にいらっしゃいました。
 詳しい事情までは書けませんが、私は、この相談者の現在のお仕事、年令や性格、再婚の可能性、また、子供達の年令や現在の状況に加えて、相手方に対して請求可能な金額や相手方の性格、相手方から予想される反論、それに伴って裁判に要する時間の予測などを、総合的に詳細に検討しました。そして、その中でも特に相談者の性格や人生観を最も重視して、この件は、元ご主人に対して金銭請求をする方が不利益が大きいと判断し、私は弁護士としてそのようにアドバイスする理由を説明しました。その結果、この相談者も法律相談だけで納得されて、非常にすっきりとした表情で帰宅されました。しかし、もし、私に経済的な「ゆとり」が全くなければ、ここで専門家としての判断がブレる恐れがあります。弁護士業務にとって、法律相談料は収入の柱になり得るものではなく、あくまで代理人として案件を受任できなければ、まとまった着手金や報酬金はいただけないからです。目先の儲けが欲しくて、必ずしも相談者の利益にならない裁判を勧めてしまう危険がないとは言えないでしょうし、このようなミスリードに対して、一般の相談者が弁護士に抗うことは極めて難しいことです。
 先程の日経新聞の記事に関わられた方には、ミスマッチ解消までの間、仮にそのような「ゆとり」のない弁護士が貴方自身の人生の一大事を担当することになっても、貴方は不安を感じないのか、是非尋ねてみたいところです。

 勿論、中には自分の儲けを素早く計算しながらも、併せて依頼者に最適のリーガルオピニオンを提示できる自信があるという弁護士もいるでしょう。しかし、私には、真っ先に自分の儲けの計算を始めて、それに支配された時点で、たとえ後で出したリーガルオピニオンが最適のはずだと考えても、本当はその判断は歪んでいるのではないか、という後ろめたさを拭えない弁護士の方が多いような気がします。つまり、自分のリーガルオピニオンが客観的に公正か不公正かではなく、既にその不公正らしさで自己嫌悪になるので、そうなったら、たぶん私は弁護士の業務をできなくなると思います。
 同じことは医師にも言えます。弁護士も医師も、営利業務でありながら、依頼者に対する影響が余りにも大きく失敗が許されないですし、奉仕の精神を不可欠とする仕事であるがために、自身の利益を真っ先に考えると、とんでもない過ちを犯したり、強い罪悪感に駆られる特殊性が内在しているわけです。私は、これが弁護士業務は自由競争に馴染まないとされる真相ではないかと考えています。弁護士増員の司法改革の失敗を語るときに、生活に窮して、依頼者からの預り金を横領した弁護士の不祥事などがクローズアップされますが、実は、そのような少数の極端な犯罪ではなく、その少し手前に実在する大いなる危機について、しっかりと警笛を鳴らしている記事を見たことがほとんどないのは残念です。以前と比べて弁護士の「ゆとり」のなさと、目に見えない儲け第一主義への弁護士の意識の変化が生み出す潜在的な被害の方が遥かに脅威であることに気付いている国民は少ないでしょうが、少なくとも「需要があるから、どんどん数を増やそう」的な意見は、いかに安直で危険なものか、ご自身が人生の一大事を弁護士に相談されることを真剣に想像してみれば、十分に分かっていただけるのではないかと思います。

 ちなみに、私は弁護士を増員することには賛成です。ただ、増員には賛成ですが、従来長きに渡ってきた500人時代の先輩弁護士達から、OJTの訓練を受けられる環境を維持して、緩やかに増員しなければならないと考えています。
 この司法改革に限らず、ダムなどの公共事業の継続の是非でも頻繁に問題になりますが、どうしても日本では、一度決定した計画やプロジェクトを中止したり、見直すことに対して、非常に臆病な文化があります。これは国家的なプロジェクトに限らず、民間の会社経営においても起こり得ることです。
 たしかに、以前はよく考えて始めたはずの事業や大々的にスタートさせたプロジェクトを変更することは、大変勇気が要ります。しかしながら、人は判断を間違えることがあります。当時はよく考えてスタートさせたつもりでも、環境が変化してそぐわなくなったとか、端的に最初から間違っていたということもあると思います。試行錯誤がやむを得ないこともありますし、ときには勇気ある撤退や変更も必要でしょう。

 司法改革についても、是非一度立ち止まって検証する勇気を持って欲しいと思います。