アクティブイノベーションウエスト代表弁護士の木下です。

  今回も前回に続いて、私が参加した富田林少年殺人の裁判員裁判をテーマにしますが、今日は裁判員の立場から、特に私が感じた裁判員の負担についてお話をします。

  私が被害者参加した裁判において、裁判員の方をよく見ていましたが、改めて彼らの仕事は本当に大変だと思いました。

  この裁判は殺人事件でしたから、裁判員の人には見るのも相当に辛い証拠、例えばご遺体の写真や血のついた凶器などについても法廷で示され、直接確認してもらいました。
  普段目にすることのない遺体の写真、それも普通の病死などではなく、何度も殴られて顔が腫れ上がった凄惨な写真などは、一般の人であれば直視するのも辛いと思います。
  また、ぼっきりと無残にも折れた凶器の一つである木製バットは、それがどれ程の強い力で振り下ろされたか容易に想像できるものであり、生々しい血痕も残っていました。自分がそんな強烈な力で後頭部を思い切り殴られたら、一体どうなってしまうだろうと考えながら、伏し目がちに証拠を見られているような裁判員の方々は、きっと息が詰まるような気持ちだったと思います。

  その他にも法廷内では、何度か言葉にできないような大きな悲しみに包まれる場面がありました。
  殺人の場面を詳細に語る被告人の供述調書や、被害感情の証拠として、被害者の誕生から成長までの過程を語る母親の供述調書が朗読されているときの法廷の空気は、およそ表現し辛いものでした。被害者同様、自分も家族の溢れるような一杯の愛情を受けていたのに、ある日突然何度も何度も酷く殴りつけられているような、何かそんな感覚になりました。
  法廷内のあちこちから嗚咽が聞こえ、しかし裁判中ですから泣き叫ぶこともできず、次第に嗚咽が押し殺したような号泣に変わっていく法廷は、正に生き地獄のようで、裁判員の方々は本当に辛かったと思います。おそらく、その場にいらした方でないと分からない雰囲気だったと思います。
  それでも、裁判員の方々は、聞くのも辛いであろう供述調書の朗読や殺気立った怒気と号泣が混じった被害感情の訴えなど、その一つ一つに対して、本当に真剣に耳を傾けて聞いてくれました。
  最終日に、私は、被害者参加人の代理人弁護士として論告求刑を述べました。
  おそらく、ほとんどの弁護士がそうでしょうが、これまでに法廷で何度も証人尋問をしてきた私にとっても、証言台に立って、真っすぐ裁判官席に向かって長時間の演説をすることは初めての経験でした。
  しかし、裁判員の方々は、ここでも本当に真剣な眼差しで、辛く悲しい我々の被害感情の訴えを聞いて下さいました。

  私は、今回の裁判員裁判に被害者参加してみて、命を削ってとまでは言いませんが、毎日毎日本当に生気を削って仕事をしている感覚がありました。
  人の生き死にを扱う事件は今までにも何度も経験しましたし、反対に殺人事件の刑事弁護を担当したこともありましたが、今回は弁護士になって初めての感覚でした。開廷中であるにも関わらず、涙を堪えられない場面が何度もありました。おそらく、被害者の方の強烈な思いが裁判に直接反映されることで、従来とは異質の裁判となり、その法廷の空気にどっぷりと触れることで、毎日毎日精根尽き果てる感覚になったのだと思います。
  勿論、それこそが被害者参加制度に求められるものでしょうし、私は、弁護士として、そのような重大極まりない仕事を任せていただいたことに対する使命感もありました。
  ただ、裁判員の方は、それが職業でも何でもなく、本当に一般の普通の方です。ですから、その苦悩は並大抵のものではなかっただろうと、改めて推察します。

  裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(通称「裁判員法」)において、裁判員候補者の中から裁判員を選任する過程で、検察官と被告人それぞれが、理由を示さない不選任の請求ができることをご存知でしょうか?
  いわゆる拒否権と言える制度で、裁判員法第36条第1項では、原則として検察官及び被告人は、それぞれ4人を限度として、このような拒否権を行使して、裁判員への選任を拒むことができます。つまり、裁判長の裁判員候補者に対する質問などを通じて、思想的に極端な偏りが見られる人だけでなく、被告人の量刑などについて、真摯に考える態度が伺えない人は、予め検察官や被告人から、裁判員裁判に参加することを拒まれてしまうわけですね。したがって、逆に言えば、このような過程を経て裁判員に選ばれた人は、思想的な偏りが小さく(例えば、人を一人殺してしまったら、必ず死刑にすればよくて、一々事情を聞くまでもない、という主義信条は持ち合わせていない)、そのために、裁判で出てくる事情を一生懸命に聞いて判断しようと努め、真剣に裁判に臨まれようとする方である可能性が高いわけです。そして、それがゆえに、そのような真摯な態度の裁判員の方々は、被害者同様に痛みを理解し、苦しみを共有し、裁判員裁判の中で大きく傷つく可能性が高いのだと思います。

  被害者参加されたご遺族は、判決後の囲み取材の中で、裁判員裁判でよかったとおっしゃいました。私も同感です。
  しかしながら、それは各裁判員のこのような犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけないし、国は、真面目に国民の義務を遂行している各裁判員のこのような苦労に甘えて、その後のケアを怠り、放置してはいけないと思います。
  よく言われている、専門家によるメンタルケアの相談を受けられる体制も必要でしょうが、私が感じたのは、同じ裁判の裁判員になったかどうかに関わらず、同様の苦悩を経験した人の意見交流会のようなシステムが必要なのではないか、ということです。
  裁判員は、裁判が終わった後も、守秘義務に縛られて、ひっそりと苦悩を背負って生きていくわけですが、せめて同様の悩みを抱えることになった裁判員経験者と会話をし、それぞれの苦悩を和らげることができるような仕組みが欲しいと思います。

  実は、裁判員法には附則があります。その第9条では施行後3年間を経過した場合において、この法律の施行の状況について検討を加え、必要があると認めるときは、裁判員裁判制度に対して、所要の措置を講ずるものとする旨の付言があるのです。したがって、裁判員裁判は、平成24年5月、すなわち来年5月の経過を待って、現状の制度でいいのか、再検討がなされることになります。
  私としては、立法に関わる人は重大事件の裁判を最初から最後まできちんと傍聴して、裁判員の苦悩を共有して受け止めていただいてから、改正の議論をして欲しいと思います。

  さて、ある日裁判所から裁判員候補者として呼出状が届いたら、皆さんは、どう思われるでしょうか?
  ここでお話したような負担を知っても、それでも、なお皆さんは裁判員ができますか?
  いずれにしても、裁判員の方々が背負う苦労や悲しみについて、周囲の人が十分にこれを理解して、裁判員をリスペクトできる成熟した社会にしていかないと、本当の裁判員裁判は根付かないのではないかと感じました。