アクティブイノベーションウエスト代表弁護士の木下です。
先日、民主党の小澤議員が強制起訴されました。
私は証拠資料を見ているわけではないですし、今後の裁判で明らかになっていくでしょうから、小澤議員が有罪になるかどうかのコメントは、ここでは差し控えます。
ただ、この強制起訴という制度が現状のままでよいのかどうかについては、思うところがあるので、今日はそのお話をしようと思います。
強制起訴は、法律の改正によって、比較的最近できた制度です。
日本では、犯罪が疑われる行為を刑事裁判にかけて、罪を問うのは検察官の専属権限とされていて、起訴独占主義と呼ばれています。刑事責任を問うことは非常に重大な影響がありますから、起訴するかどうかはプロ中のプロである検察官に委ねようというわけです。
これに対して、もともと日本では、検察官が不起訴とした事件処理の妥当性を問うために検察審査会が存在しました。検察審査員は選挙権を有する国民の中からくじ引きで選ばれ、11人で審査します。検察審査会の決定には法的拘束力がなかったのですが、近年この権限が強化されて、検察審査会が2回起訴相当と判断した事件については、必ず起訴しなくてはならなくなったのです。ですから、改正された検察審査会による強制起訴は、起訴独占主義という原則の大きな例外となるわけです。
プロの感覚がいつの間にか、市民感覚とズレてくることはあるでしょうから、裁判員裁判と同様に、市民感覚を反映するため、検察審査会の権限を強化することは、とても良いことだと思います。
ただ、検察官とは別に、検察審査会が徹底的な独自の補充捜査をしてから、起訴相当かどうかまでの判断をしているケースは少ないようです。あくまで感覚的な部分が大きいわけですよね。
そうすると、有罪かどうかまでは分からないけど、社会的に注目されている事件だからとか、人が亡くなった重大な事件だからという理由が優先されて、「とりあえず」起訴されるケースが増える可能性があります。今回の小澤議員の件も、検察審査会から、「真実を明らかにするために」という、「とりあえず」的な理由で起訴相当としたかのようなコメントを見ましたが、私はこれには違和感を覚えました。日本では、起訴されて一度刑事裁判にかけられること自体が、ほぼ回復不可能な不利益となるからです。
ですから、「真実を明らかにするため」ではなく、証拠上「有罪となる確率が高い犯罪と考えるため」でなければ、起訴するのは無責任だと思います。検察審査会が起訴相当の意見を付けても、実際に起訴するのは裁判所から指定された弁護士であって、その検察審査員ではないことも、この無責任さを助長しているように思います。「とりあえず」的に起訴された人が後に無罪となったら、一体誰が責任を取るのだろうと考えてしまいます。
たしかに社会的影響の大きい事件や、結果の重大な事件は裁判などで責任を問いたくなるのが世論かもしれないし、人間としての心理です。
しかしながら、結果の重大さと刑事責任の有無は、完全に別次元の問題です。例えば、物陰からふざけて友人を驚かせようとして、いきなり声を掛けただけなのに、驚いた友人が転倒して頭を打って亡くなってしまったとしたらどうでしょう?人が亡くなっている以上、結果の重大さは明らかです。もし、亡くなったのが著名人だったりしたら、社会的にも大変な影響があるでしょう。
しかし、(軽微な過失致死罪に問われるかは別にして)明らかに殺意が認められないのに、結果の重大さを優先して、「とりあえず」殺人罪の裁判にかけることは妥当ではないはずです。ところが、日本では、この結果の重大さと責任の有無が時々混同されることがあり、その結果、上記の事例は極端だとしても、微妙な事件では比較的「とりあえず」起訴相当に傾く可能性があることは認識するべきです。
この点、解決方法として次の二つのどちらかが考えられます。
まず、①検察審査会の市民感覚を反映して、起訴相当の意見が出た後、最終的に再度指定弁護士の候補者となった専門家が、証拠上有罪を問えるかどうかを吟味してから起訴する。
もう一つは、②検察審査会は、全ての不起訴案件を担当するのではなく、証拠は揃っているんだけれども、敢えて検察官が不起訴とした起訴猶予の事件だけを扱って、強制起訴とする(証拠不十分が理由で不起訴とした、いわゆる嫌疑不十分の事件は扱わない)。
以上の二つが、検察審査会の良さと、無責任な起訴を防ぐバランスとして妥当な方法だと思います。大阪地検特捜部による村木局長の起訴を参考にすれば、刑事裁判にかける起訴は本当に慎重でなければならないことは分かっていただけると思います。