先週、認知症患者の徘徊による鉄道事故の控訴審判決がありました。
この民事裁判は、徘徊中の認知症患者が電車にはねられた後、JRが遺族に対して、振替輸送費などの損害賠償として、約720万円の支払を求めたもので、名古屋高裁は第一審に続いて、亡くなった認知症患者の妻の法的責任を認めましたが、他方でJRの落ち度も認めて、その損害も半分に減額しました。
高齢化社会の中で、近年認知症患者が増えていて、その自宅介護には限界があるため、家族はどこまでの責任を負うのか、社会的にも非常に注目された判決でしたが、高裁でも妻の法的責任が認められたことで、介護福祉の現場からは強い反発があるようです。そもそも施設を受け皿とする介護には限界があるところ、自宅介護について、認知症患者を24時間監視することは、その家族にとって、精神的にも費用的にも極めて難しく、裁判所は介護現場の現実がわかっていないという厳しい批判をいくつか目にしました。
私は、幸い両親がまだ健康ですから、今のところ大変な介護を経験していませんが、以前、やはり認知症の高齢者の方が徘徊中に交通事故で亡くなった損害賠償事件を受任したことがあり、そのときにご遺族から自宅介護の実態をお聞きする機会があったので、今回の判決に対する介護現場側からの批判はある程度理解できます。
ただ、裁判所も、そのような介護現場の実態を全くわかっていないのかというと、そうではなくて、ただ純粋に法律を当てはめると、亡くなった認知症患者の妻の過失は認めざるを得なかったようにも思えます。その結果、司法判断として、同居の遺族の責任は認める一方で、JR側の安全対策も厳格に解釈し、そのような徘徊者が簡単に立ち入って事故にならないような対策が十分ではなかったとして、損害を半分にすることで、多少なりとも遺族側の負担との調整に苦慮した跡があるように感じました。裁判所が時々用いる和解的な判決ということです。
結局、こういう大きな社会問題に対する司法判断は、どうしても受け身なところがあって、現実的な政策による解決を待つしかない無力さがあります。この徘徊防止の問題についても、今後施設が増えるとともに、自宅介護の補助が充実して、早く政策的に解決されることを期待しています。
ところで、今回の鉄道事故において、遺族が加害者として訴えられたことは、私が受任した交通事故事件との比較で、個人的には興味深かったです。この交通事故事件では、遺族はあくまでも被害者として、損害賠償請求の訴えを起こして、その主張がほぼ全面的に認められたからです。
このような違いが生ずるのは、自動車が歩行者や他の車両にも絶えず注意しながら運転することを強いらるため、徘徊者も社会的弱者として、自動車から守られるべき存在と考えられるのに対して、鉄道という排他的支配的な空間においては、基本的に鉄道側で事故を回避することは難しいため、侵入者が悪いと考えられるからだと思います。その違いを生む理由はもっともなのですが、遺族側からすると、徘徊中にどこに入り込むのか、本人にも家族にもわからずコントロールできないにもかかわらず、認知症患者が自動車にはねられたら被害者となるのに、たまたま入り込んだのが鉄道で電車にはねられたときには、一転して加害者として訴えられることは、おそらく納得し難いものがあるだろうと思います。正にその辺りの不満も汲み取って、控訴審は従来よりもJR側の責任も厳しく解釈して、排他的支配的な空間という考え方を弱めて、バランスを取ったのでしょうが、反対に今後は自動車事故においても、歩行者として徘徊者が全くの被害者になるのではなく、家族側の過失相殺を大
きく認めるなど、鉄道事故とのバランスが求められるかもしれません。鉄道事故なら全面的に認知症患者側が悪くて、自動車事故なら全面的に自動車側が悪いという極端な考え方は、共に是正されていくのではないか…ということです。
この点も含めて、現実的な政策によって、認知症患者の徘徊問題が今後どのように解決されていくのか、注目したいと思っています。