アクティブイノベーションウエスト代表弁護士の木下です。
先日、国から中部電力に対して、静岡県にある浜岡原子力発電所のすべての原子炉を停止するように要請があり、これが受諾されました。稼動中の原子炉が政治判断で停止されれるのは初めてのケースです。
ところで、森川弁護士も当ブログで触れましたが、この浜岡原発を巡っては、その運転差し止めを求めて、既に裁判になっていることをご存知でしょうか?それも平成15年に提起された裁判ですから、今回の大震災や停止要請よりもかなり以前から、その安全性を危惧して、法廷闘争を続けてきた人達がいるわけです。この差し止め訴訟は、平成19年10月に静岡地方裁判所において、請求が棄却され、現在も控訴審の東京高等裁判所で続いています。今回の停止要請はこの裁判にどのように影響するのか、差し止め訴訟の性質も踏まえて考えてみます。
まず、差し止め訴訟とは、文字通り何らかの行為の停止を求める民事裁判です。一般的には民事裁判というと、損害賠償などの金銭請求を想像される方が多いと思いますが、金銭の支払い以外の一定の行為を求める民事裁判も少なくなく、浜岡原発運転差止裁判も、その中に含まれます。
そして、このような一定の行為を求める裁判は、誰に何をしてもらうのか、又はしないように止めさせるのかによって、その難易度が異なります。例えば、①つきまといを繰り返す元交際相手に対して、ストーカー行為を止めさせることや、②建築中のマンションについて、日照権の侵害を理由に、建設工事の差し止めを求めることも、③この浜岡原発運転差し止め訴訟と同類型の裁判になり、一般的には、①よりは②、②よりは③というように、後者になるほど裁判で勝つことが難しくなっていきますが、それは何故でしょうか?求める行為が社会的に重大になるほど、判断は慎重にされ、請求が認められにくくなるのは当たり前だと思われるかもしれませんが、これが金銭の支払いを巡る裁判ですと、係争金額が高額で重大になるほど、慎重に判断されるかもしれないですが、だからといって、請求が認められにくくなるわけではありません。これは金銭を巡る裁判であれば、後日判断が間違いだと分かっても、理屈の上では後で利息を付けて返してもらえばよいと考えられているからです。
しかし、金銭の支払いと異なり、差し止めを求めるような裁判で一旦請求を認めてしまうと、仮に間違いがあったときに、取り返しのつかないダメージを与えてしまう可能性があります。このような差し止め訴訟の本質から、求める行為の対象が社会的に大きくなればなるほど、慎重な判断となってしまうわけです。
私も以前、大阪のUSJことユニバーサルスタジオジャパンの開園前の差し止め裁判に関わったことがあります。このときはUSJ側の仕事で、裁判所の慎重な判断に基づいて勝訴できましたが、差し止め訴訟を認めさせることが本当に難しいことが逆によく分かりました。したがって、浜岡原発の運転差し止めを認めさせることも極めて難しいです。国策ともいえる難題だけに、もはや裁判所の判断を超えているとも考えられます。要は、いかに三権分立のもとで、「司法権の独立」を唄っても、一個人の裁判官が、そのような巨大プロジェクトに本当に待ったをかけられるのかどうか…ということです。ストーカーやマンションの建設を止めるのと、国策である原発事業を止めるのでは、そのプレッシャーには雲泥の差があるでしょう。いくら高額でも、金銭を巡る裁判であれば、比較的プレッシャーなく下せる判断が、一定の行為を求める裁判となると、取り返しがつかなくなることを恐れて、様変わりしてしまうのですね。諫早湾の干拓事業の差し止めに当たる開門を認めたような例外もありますが、このような巨大プロジェクトの差し止め訴訟は、ほとんど認められてこなかったことも頷けます。
さて、冒頭の裁判への影響ですが、今回のように国が運転停止の指針を示せば、司法も容易に差し止めを認めるようにも思えますが、状況はそう単純ではありません。今回の停止要請は、防潮堤の完成など津波対策が完了するまでの暫定的なもので、原告団が求めている、浜岡原発の恒久的な運転停止とは異なるからです。したがって、裁判所としては、単に国の停止要請を追認するだけで済むものではなく、あくまで独自に浜岡原発の危険性を判断しなくてはならない立場は、停止要請前と何ら変わっていないのです。強いていうなら、逆に津波対策さえ完了すれば、運転しても大丈夫というお墨付きが与えられたようでもあり、裁判において、原告団には逆風になるような気もします。
いずれにしても、今回の国の停止要請によって、防潮堤が完成すれば、浜岡原発の運転を再開しても本当に大丈夫なのか…世間の注目も飛躍的に上がりましたから、かえって司法判断も微妙で難しくなったと思います。タフな判断を迫られますが、同じ司法界に身を置く者としては、裁判所には、政治的決着に巻き込まれないで、「司法権の独立」から、独自の合理的な判断を示して欲しいと思います。