アクティブイノベーションウエスト代表弁護士の木下です。

   皆さんは「拉致天国」という言葉を聞いて、どこの国のことを指していると思われるでしょうか?過去の歴史から、残念ながら北朝鮮のことを連想される方が多いでしょうから、この不名誉な汚名が国際的には、しばしば日本のことを指して使われることがあると知って驚かれると思います。
   その批判の理由は、「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約」、通称ハーグ条約に日本が加盟していないからです。ハーグ条約とは、監護権の侵害に伴う国境を越えた子供の移動について、父母のどちらが子供を監護していくのかを決めるまでは、それまで居住していた国に一旦子供を戻すための国際協力の仕組みを定めたものです。1980年にハーグ国際私法会議で採択され、現在アメリカや全てのEU加盟国など86か国が加盟しています。G8諸国の中で未加盟なのは日本だけだと知れば、国際離婚に伴う子供の連れ去りに対する法的手続きを取れない日本に対して、「拉致天国」と批判する人がいることも仕方ないのかもしれません。このように、ハーグ条約の未加盟については、海外居住の国際離婚に伴って日本人(多くは妻)が子供を連れて日本に帰国したときに、外国人配偶者(多くは夫)が子供に会えなくなることが問題とされていますが、実は日本居住の国際離婚に伴って外国人が子供を連れて母国に帰国してしまったときにも、日本人配偶者が子供を取り戻す手続きが取れないという大きな問題があります。
   そこで、日本政府も重い腰を上げて、ハーグ条約に加盟することを前提に、現在それに関連する国内法の整備に入りました。そのため、ハーグ条約のシンポジウムの機会が増え、私も先日大阪におけるシンポジウムに出席しました。国際離婚の数と子供の親権を巡る紛争の数は、近年どちらもかなり増えていますから、これからの弁護士としては、ハーグ条約に関する知識を身に付けておくことは不可欠だと思います。特に私は、日本人の男性の代理人として、タイ人の女性との間の本格的な離婚訴訟を担当したことがあり、このとき女性が小さな子供をタイに連れて帰国してしまったことで苦労しましたので、以前からハーグ条約には関心がありました。余談ですが、この案件では、タイ人の女性に対する慰謝料などの金銭の支払いに当たって、日本とタイの物価のギャップを考慮すべきかどうか、仮に考慮するとして、どの程度の格差を折り込むべきかで激しい争いになりました。タイ人の女性が金銭的な補償を受けるべきだとしても、彼女が既に帰国してしまっていて、今後もタイで生活していくのであれば、ストレートに日本の物価による金銭の支払いをすることは莫大な補償になり過ぎて、かえって不公平な解決になるときもあるからです。下手をすると、発展途上国の外国人との国際結婚は手っ取り早い金儲けの手段として悪用されかねなくなります。結局この件では、タイ人の女性に対して、日本とタイの物価の格差を参考にして、格差そのままではなく、少し多めに調整した金銭の支払いをすることで円満に解決しましたが、このように国際離婚では、日本人同士の離婚案件以上に複雑な争点も出てくるため、弁護士も幅広い角度から事案を分析する能力が求められます。ハーグ条約に関する知識も、そのための武器の一つになってくるのだろうと思います。

   さて、ハーグ条約の適用対象は、①監護の権利の侵害を伴う、②16歳未満の子供の、③国境を越えた移動であり(ハーグ条約第1条、第4条)、その結論は返還命令、すなわちそれまで子供が居住していた国に向けて、子供を返還することが原則となります。これに対して、連れ去りから一年以上が経過し、子供が新たな環境に適応している場合(同第12条)など、返還拒否が認められるいくつかの例外は用意されていますが、もともとハーグ条約は6週間という迅速審理に基づく無条件即時返還を目的としていますから(同第11条)、例外の認定は限定的であるべきとされています。いわば子供の返還自体に特化した手続きなのです。監護権がどちらに帰属すべきかとか、今後の面接交流をどうすべきかという全体的な解決を図ることを目的とはしておらず、まず連れ去り状態を解消して、抜本的な話し合いのためのテーブルを作ることを目的としていますから、夫のDVなど非常に深刻な理由によって子供と一緒に逃げ出してきたような女性が不安を感じ、ハーグ条約の批准に反対することも理解できます。今年NHKのクローズアップ現代でハーグ条約が取り上げられたときには、このような女性が抱く不安についても丁寧に描写されていて、日本ではハーグ条約の批准に賛成派と反対派がほぼ半々で拮抗していることが報告されていました。

   ただ、シンポジウムなどに出席すると驚くのは、日本がハーグ条約に加盟していないために、合法的な子供の帰国も強制的に止められるケースがかなり増加していることです。この子供達の多くは、日本の国籍を持ちながら、日本人として日本の土地を踏むこともできず、日本人の祖父母にも会いに行けず、日本の文化にも触れられないのです。ハーグ条約未加盟による日本の対応全般に対する不信感から、正常に国際結婚を営んでいる人まで、子供を連れての不合理な出国拒否に巻き込まれることは理不尽極まりないことで、これを是正しなければならないことについては争いがないものと思います。
   思うに反対派の人の不安もよく理解できますが、やはり法的なスクリーンを何も通さないで、子供を連れて帰国さえすれば事実上子供との生活が確保できてしまえるというのは、事情はどうあったとしても法治国家のルールには馴染まないものです。実力行使による暴力での解決と、本質的には大差ないわけですから。これに、先程述べた日本全般に対する国際的な信用力の低下も加味して考えると、ハーグ条約の批准は世界的に不可避な流れでしょうから、日本としてもこの批准をした上で、子供の利益を考慮して例外に該当すべき案件は断固子供の返還の拒否ができるように、しっかりと国内法及びその運用を整備していくことが大切になってくるのだろうと思います。諸外国ですと、スイスが独自に国内法を用意して、ハーグ条約の形式的な適用が不合理な結論にならないように調整しています。日本もハーグ条約の批准が遅れた分、万全の準備をして、賛成派の人も反対派の人も皆が納得できるような合理的な運用を図って欲しいものです。